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地元情報
用賀の歴史

用賀村の誕生
大山道
津久井往還
農業用水としての品川用水と谷沢川
村の構成
玉電停車場の開設
関東大震災
二子橋の完成
玉川全円耕地整理の実施
太平洋戦争
用賀商店会の誕生
オリンピック東京大会
玉川電車の廃止と新玉川線の開通

用賀村の誕生
「草分け七軒百姓」という言葉がある。信州飯田から菊地を名告る三兄弟が共の者2人を連れてこの地に来て飯田と改め土着したといわれている。この五軒の家と元からこの地に住んでいた二軒の農家を併せて七軒を草分けといっていた。

「新編武蔵国風土記」には村の草創は、永禄、元亀の頃(1558〜72年)、飯田帯刀、同、図書、ナドトイヘル人の開発ナリトイヘドモ、スベテタシカナルコトハツタエズと記してあります。後に飯田帯刀の子、図書が真福寺を開基したことによって、村が開かれたといわれている。

 用賀という地名は鎌倉時代初期に勢田郷に瑜伽(梵語:ユガ)の修験道場が開設され、後に真福寺の所有となったことからこの梵語「瑜伽:ユガ」がヨーガの地名となったといわれている。
大山道
 大山道は古くは矢倉沢往還と呼ばれ、その昔、箱根、金時山のそば、足柄峠の下に矢倉沢の関所があって、旅人はこの関所を通って往来していた。<BR> そして江戸時代となり、中期以降、相模の国、大山への庶民の信仰が高まり、江戸市中の人々の大山詣での道となり「大山道」といわれるようになった。用賀村に直接的変化を及ぼしたのは江戸時代に入って、五街道をはじめとする幕府の道路整備策以降であったと思われる。






  その最も顕著なものが、大山道と用賀宿の繁栄である。江戸中期になると相州大山の阿夫利神社や富士山の浅間神社への登山信仰の道としてクローズアップされてきた。宿場的性格を持った用賀村には、わらじなどを売る雑貨店や、甘酒・団子を売る茶店、道中に必要な色々な品々を売る店が軒を並べて賑わっていたという。(しかし、半農・半商のお店が多かった)この栄えていた合流点には道しるべとして庚申塔が建てられ、右、江戸城、左、世田谷、四谷と刻まれていた。 <BR>
  大山道は時代により、場所により色々な名称で呼ばれていた。江戸に向かっては、青山道、赤坂道、江戸道、西に向かっては、二子道、厚木街道、大山街道、矢倉沢往還等と呼ばれていた。<BR>
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  明治初期に大山街道沿いにあった業種は、宿屋、醤油屋、酒屋、油屋、人形屋、種屋、染物屋等といわれている。又この頃、糸工場が急に数を増し、輸出生糸景気の波に乗って、大きな旅館、銀行、そして製糸染色工場が建ち並んでいたという。
津久井往還
 村の北辺には津久井往還(現世田谷通り)が愛甲、津久井(神奈川県)の各村と、江戸を結ぶ幹線道路として、薪、炭を運ぶ生活道で、幕末には生糸、絹織物を直送する絹の道ともなっていた(明治22年には市町村制により、用賀村は玉川村大字用賀と改められた)
農業用水としての品川用水と谷沢川
馬事公苑の東側を南流していた品川用水というのは、寛文3年(1663年)熊本藩主・細川越中守綱利の弟、若狭守利重が品川領を拝領したときに、庭内の泉池用として水を引くために4年がかりで玉川上水の分水から掘割って造った長さ7里(26キロ)余りにわたる用水です。
しかしこの用水はこの周辺の水不足に悩む農民たちの嘆願によって1669年には庶民に下賜され、用賀村も2ヶ所の分水口によって農地の干害を潤すようになった。ところが上流の村々が取水すると品川領まで水が届かなくなるという理由で、元禄2年(1689年)には再び閉塞されてしまった。(品川用水は昭和25年〜27年にかけて埋め立てられた)その後農民はまた水不足に苦しみ、品川用水から漏れる水をためて、1720年には天神溜池(上用賀1丁目)を多くの人の労働によって掘り、又湧き水なども利用して田頭溜池(上用賀4丁目)中丸池(上用賀5丁目)村山池(用賀2丁目)今田屋の池(用賀2丁目)などを次々に掘って農業用水とした。

用賀村の水田は、この溜池の周辺及びこれを水源として流れる谷沢川の両側に広がっていった。水田は水源地に近いほど良い田で一、二、三等田地と区別され、年貢に差をつけられていた。谷沢川には三峯橋、中丸橋、横溝橋、田中橋、向大橋、上の橋などがかけられていた。田中橋は大山道を歩く人が渡る橋で、この名は田んぼのまん中を渡る橋であったことから名づけられたと云われている。

このあたりは低地帯で大雨が降ると水は道にまで溢れていた。こんな時には通行人を荷車に乗せて運んであげたという話も残っている。この大山道の近くの川辺は湿地で葦が生い茂り、よしきりが鳴いていたと云う。この地の7割位は山林と畑地でそのところどころに竹藪がある土地柄と成っていた。
村の構成
 用賀村は多くの小字に分かれていた。村人はこれを上原(下新堀端・池上)本村(池下・下西原・寺西・大道西・横溝の一部)上(上西原・上東原・上瀬田境)中丸(中丸道上・中丸道下)向(向大道端・向原)下(下北原・下南原・天祖前・宇佐前・宇佐後)の6つに大きく分かれていたようです。
玉電停車場の開設
 明治403月に道玄坂〜三軒茶屋間が開通し、1ヶ月遅れて4月には三軒茶屋〜二子玉川間の玉川電車が開通した。この電車は大山街道を利用した路面電車で、多摩川の砂利を運搬するのが目的で造られ、通称ジャリ電と呼ばれていた。この電車の開通に際し村民は用賀村に駅を作ることを強く要望し、努力した。
このとき、油屋として財をなした、玉川一の財産家であった鈴木虎之助氏は、この周辺の土地を買収して駅設置のために寄付し、又村民も道路を整備する費用を負担するなどして協力した。

 用賀駅付近の大庭園には梅林があって、春ともなると美しい花を咲かせ、村民の憩いの場となっていた。

 玉電は砂利運搬車の後ろに客車を繋いで走り、用賀〜三軒茶屋間7銭、用賀〜渋谷間は片道13銭の運賃であった。この当時、米一俵が9円の頃であったので、高価なものと感じ、歩いていく人が多かったという。大山街道は野菜を満載した大八車、ふん尿を積んだ牛車、それと並んで走る玉電と、のどかな田園風景は昭和の初めまで続いたのであった。


 玉川電車は、渋谷を起点として道玄坂上、大橋、池尻、三宿、太子堂、三軒茶屋、中里、上馬真中、駒沢、弦巻、桜新町、用賀、瀬田、別院前、二子玉川に停車していた。

 大山街道の宿場的性格を持った用賀駅付近はますます発展をみせ、絞り油屋、醤油造屋、酒屋、かさ作り屋、駄菓子屋、雑貨屋、そば、すし、団子、甘酒等の茶店が出来、さらに製糸工場、紺屋も加わり、他村から働きに来る人々や、繭織物の仲買人等で賑わい、大山街道随一の状態を見せていたという。玉電用賀駅の設置により用賀村の賑わいの中心は少し西に移っていった。

 玉川電車の開通後、大正の初めには用賀に住んでいた大給生氏は賞勲局総裁の働きかけで、一部に電灯が引けるようになった。しかし当時は一軒に十燭の電灯二つだけ、しかも夜だけと決められていたためランプを併用していた。

 その後、大正9年(1920年)の第1回国勢調査では世帯数256、人口1343人と増えている。この頃用賀村の商店も25店となっている。


関東大震災

 大正12年9月1日関東地方南部一帯に大地震が発生、お昼時だったため、家屋の焼失、倒壊による被害は未曾有のものとなった。この当時の東京府全体の戸数約83万戸の内35万戸が罹災した。この大地震の後、東京の人口分布は公害に広がり始め、世田谷地区への人口流入の契機となっていった。

二子橋の完成
 二子橋は多摩川に架けられた橋で、大正14年7月に完成した。二子の渡しがあったことから二子橋と名付けられた。橋が出来て、小杉や登戸方面の人々も府中街道を経由して、高津より東京方面に行くことが出来るようになり、大山街道には朝早くから、大八車や馬車が列をなしていたという。
玉川全円耕地整理の実施
大正15年に玉川村、村長豊田正治氏の提唱で、玉川全円耕地整理が行われることになったが、当初この村では反対する人が多く、なかなかこの計画はまとまらなかったが、昭和8年までに話し合いがついて、昭和9年から耕地整理の工区を東・中・西の3地区に分けて工事が進み、18年までに3地区の工事は終了した。

 このとき、事業費捻出のため、帝国競馬協会に売却されたのが現在の馬事公苑である。この耕地整理により、現在の用賀中町通りが誕生し、この通りの両側に徐々に店舗が増えていき、そして現状に近い商店街になっていった。

 昭和4年に芝白金より陸軍衛生材料廠が用賀に移転してきた。これにより、軍人、軍属、研究員等が急増して、玉電は急に混みだしたそうである。これにより玉電の折り返し所が用賀に設けられた。近くには銭湯、銀行なども造られ、ガスも引かれるようになった。

 昭和7年世田谷区が誕生すると大字用賀は玉川用賀となり、1丁目から3丁目までに区画されるようになった。

太平洋戦争
 昭和16年12月8日、日本は米英に対し宣戦を布告した。男性は次々と戦地に送り出され、残った若者は男女を問わず軍需工場に動員された。国内では主食の配給制度及び物資が極端に欠乏し、商店は戸をおろす店も多くなり、商店街は次第にさびれていった。昭和20年8月15日、敗戦という事態をもって幕を閉じた。これ以降、食糧難、物資不足、インフレ経済は進行していった。
用賀商店会の誕生
 大震災後、人口の移動が郊外に広がり始め、玉電用賀駅の玉川電車の沿線付近に民家が増加し、各商店も活況を呈してくる。昭和8年となり用賀の時計商、小倉卯之助を会長として、商工会が設けられたが、統制経済移行の中では本格的活動ができなかった。

 耕地整理が行われた土地は良好な住宅地として人口を受入れ、用賀の商店街も住宅地対応の商店街として成長していった。そして、戦後の混乱の中で、昭和22年、48店で用賀商店会が発足し、初代商店会長に鈴木直次が就任した。

オリンピック東京大会
 上用賀2丁目の馬事公苑は、昭和15年に行われる予定だったオリンピック馬術競技場として5万坪の土地が売却され造られたが、戦争によって中止となり、それ以後は馬の訓練場として使用されてきたが、昭和39年に、第18回オリンピック東京大会が開催されることになり、これに先立って国道246号線が整備された。

 昭和39年となり、東京オリンピック大会をむかえ、馬事公苑で馬術競技が行われ世界の注目を集めた。このとき用賀商店会では、全街路灯に、オリンピック旗を掲げて売り出し等を行い歓迎した。このとき昭和39年の用賀商店会の会員数は163店であった。

玉川電車の廃止と新玉川線の開通
 国道246号線の交通改善のため、昭和44年5月、住民に見送られながら、玉川電車は花電車を運転。二子玉川〜渋谷間が砧線とともに廃止となり、以後交通機関はバス利用となった。これまでの用賀の街は大山通りと用賀中町通りが人の流れの主流となっていたが、玉電の廃止により、人の流れは分散し、大きく変わっていった。

 昭和52年4月、長い年月を要した新玉川線の工事もついに完成した。この間、駅出入り口の設置場所について、議論が交わされたが最終的に現在地に完成した。用賀商店街では、これを祝して、新玉川線開通記念大売出し、及びイベントを盛大に行った。

 平成5年10月世田谷ビジネススクエアーが竣工した。このビルは広大な敷地に地下2階地上29階建てのタワービルのほかに7つのビルをバランスよく配置し用賀駅と直結し、外には散歩路や庭園などを配し若者たちで賑わっている。これにより駅周辺並びに美術館通りが賑わいを増してきた。昭和63年4月用賀商店会は用賀商店街振興組合となり商店街の活性化に向かって業務を開始した。
出典:用賀商店街振興組合
    平成13年8月1日発行
    ショッピングガイドブック