| このとき、油屋として財をなした、玉川一の財産家であった鈴木虎之助氏は、この周辺の土地を買収して駅設置のために寄付し、又村民も道路を整備する費用を負担するなどして協力した。
用賀駅付近の大庭園には梅林があって、春ともなると美しい花を咲かせ、村民の憩いの場となっていた。
玉電は砂利運搬車の後ろに客車を繋いで走り、用賀〜三軒茶屋間7銭、用賀〜渋谷間は片道13銭の運賃であった。この当時、米一俵が9円の頃であったので、高価なものと感じ、歩いていく人が多かったという。大山街道は野菜を満載した大八車、ふん尿を積んだ牛車、それと並んで走る玉電と、のどかな田園風景は昭和の初めまで続いたのであった。

玉川電車は、渋谷を起点として道玄坂上、大橋、池尻、三宿、太子堂、三軒茶屋、中里、上馬真中、駒沢、弦巻、桜新町、用賀、瀬田、別院前、二子玉川に停車していた。
大山街道の宿場的性格を持った用賀駅付近はますます発展をみせ、絞り油屋、醤油造屋、酒屋、かさ作り屋、駄菓子屋、雑貨屋、そば、すし、団子、甘酒等の茶店が出来、さらに製糸工場、紺屋も加わり、他村から働きに来る人々や、繭織物の仲買人等で賑わい、大山街道随一の状態を見せていたという。玉電用賀駅の設置により用賀村の賑わいの中心は少し西に移っていった。
玉川電車の開通後、大正の初めには用賀に住んでいた大給生氏は賞勲局総裁の働きかけで、一部に電灯が引けるようになった。しかし当時は一軒に十燭の電灯二つだけ、しかも夜だけと決められていたためランプを併用していた。
その後、大正9年(1920年)の第1回国勢調査では世帯数256、人口1343人と増えている。この頃用賀村の商店も25店となっている。
|